2008/08/04 『スカイ・クロラ』を見てきた

スカイ・クロラ ナビゲーター (日テレbooks)
夜行バスで京都に帰り着いた後、一路南へ走って見てきた。


期待していたのもあるけれど、もう一度劇場に見に行きたくなった映画は初めて。
見に行ってみようかなという人は、原作の解釈の余地を一つに絞ったうえに伏線・明言だらけなので、未読ならばこそ事前情報は仕入れずに行く方が良さそう。
押井守イノセンスの人)がラブストーリーの映画を作るとこうなるとは。

2008/07/29 『崖の上のポニョ』を見てきた/『ゲド戦記』の補追として見る

崖の上のポニョ
いろいろなタイミングの重なりで見に行ってきた。
まさかこんなに早くに見ることになるとは思っても見なかった。


やれアヴァンギャルドな宮崎駿の悪夢の具現化だの、『ゲド戦記』での意味のない父親殺しシーンへの返歌だの、手書き作画によるやっぱり『ゲド戦記』へのアンチテーゼだの、ぬいぐるみが化け物だの、クトゥルフ神話を踏襲してるだの散々ないわれようをしているが、まぁ単純におもしろいかどうか、と聞かれるとやっぱり微妙なとこかもしれない。


でも、ちょっとググっただけだと他に言っている人が見つからない視点として、ゲド戦記』で息子・吾郎氏ができなかったことを、代わりにやっつけようとした、というのがあるんじゃなかろうか。

  • 異界(冥界)と地上との境界がほころび、つながってしまい、それを修復すること(『さいはての島へ』のテーマ/「フジモト」のフジは不死につながる)
  • 両界の間を取り持つ存在としての半人半魚の少女ポニョ(魚は竜に通ずる/半人半竜の少女テルー)

もちろん、こうしたモチーフは普遍的なものとも言えるし、こじつけもいいところかもしれないけど、『ゲド戦記』の次のジブリ作品が『ポニョ』、ということを考えるとこの線はそう馬鹿にできないように思う。
こう考えると宮崎駿ゲド戦記ファンタジーを想像(妄想)できて俄然おもしろくなってくる。


ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)


そして、もうひとつのジブリ製『ゲド戦記』として見ると不思議なポイントが浮かび上がってくる。
異界との境界を開くのも、その調和を再びもたらすのも、どちらも「あちら側」の半魚人少女・ポニョなのはなんでだろう。
人の過ちを人の英雄が正す、というのではなく、「あちら側」に重心が置かれているのは、宮崎駿がそれほどまでに「あちら側」に引きずり込まれている、ということなのか。
千と千尋の神隠し』でも海の中を電車で進んでいくシーンが印象深かったけど、こんどはもう完全に水没してしまってる。大丈夫か。


結論。リサのドラテクはプロのラリードライバー級。
ペダルを踏み換える数コマがアツかった。

統計ワーク

ぼくとは2年ほどずれてるけど興味深い。
このポストの肝は数字ではなくて、後半のダイアローグだとは思うけど、あえて空気を読まずに精度を上げるべくグーグルワーク。

エクセルにぶち込んで1984年の4月から1985年の3月までの出生数を合計すると1,471,317人と出た。
元ポストの推定値では1,475,229人となっているので、誤差はそれほど多くない。
でも後述する死亡数と比較するための便宜上、本ポストでは1984年の1月から12月の数字(1,489,780人)を用いる。


死亡数について厚生省の公表している統計で年齢別のものを探したところ、平成9年から18年の10年間についての調査結果が見つかった。



死亡時年齢と死亡数のグラフを描いてみたところ、乳幼児期に亡くなる人数が圧倒的に多いほか、高校以降で亡くなる人数が増えていく傾向が見て取れる。
また、統計の年度によらずおおむね一定した傾向が確認されたので、1984年生まれの人の死亡数として、平成9年から18年(12〜22歳)の死亡数については実数を、それ以前(0〜12歳)の死亡数については平均値からの推定数を合計すると、9,781人となり、22歳まででおよそ1万人が亡くなっていることとなる。
元ポストの推定値とはかなり違うがなぜこれほどの誤差がでたのだろう。
割合を計算すると先に挙げた1,489,780人の1984年生まれのうち、22歳までで9,781人が亡くなるパーセンテージはおよそ0.66%。この数字を多いと見るか、少ないと見るか。
また、イメージを膨らましやすいように、いろいろな関わりのありえた小学校以降(6歳以降)の死亡数を同様に計算すると、5,120人、0.34%となる。


ぼくが小学校以降に同学年・同期として知り合ってきた人は千人もいないように思うが、少なくとも4人が亡くなっている。
2人は小さな事故で亡くなって、1人はニュースになるぐらいの大きな事故で亡くなって、もう1人は自らその道を選んだと聞いている。
この4人それぞれに、千人とはいわないにしても、数百人の同年生まれの知り合いがいて、同じように、それぞれに、その人たちの死をかかえている。


これからぼくが歳を重ねていく中で、同年生まれの知り合いも少しずつ、亡くなっていってしまうだろう。
生き返ってくる人はいない。
願わくば、別れが悔いの少ないものでありますように。
防げる事故は防げれば、治せる病気は治せればいい。
どうしても死という道を選ぶというのなら、それが止めようのないものにあなたが思ったとしても、せめてその前に話を聞かせてもらえないだろうか。

ケーススタディの2−すべてがFになる

10年以上も前のものになったけど、よく符合する。
相手が人間ではなくて、データベース、プログラムになる可能性はさすがに想定しえなかったかもしれないにしても。

仮想現実の技術の問題点は何だとお考えですか?


(中略)


現在は、主として三つの障害があります。第一に処理系のハード的な力不足、第二に、人間にそれを受け入れる用意があるのかという道徳的な問題、そして第三に、受け入れたあとに現れる生物的な未知の影響です。(中略)第二の問題は、深刻ですが、それでも、さきほどの話と同様に、生まれながらにバーチャル・リアリティの環境で育つ世代には受け入れられるでしょう。


(中略)


そんな未来にあって、建築とか都市はどのように変貌するでしょう?(中略)物質的なアクセスはなくなりますか?


(中略)


そうね、おそらく、宝石のように贅沢品になるでしょう。他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。エネルギィ的な問題から、そうならざるをえない。(中略)人間も電子の世界に入らざるをえません。

森博嗣 すべてがFになる p.19-21

すべてがFになる (講談社ノベルス)

ケーススタディ−ニコニコ動画

初音ミクアイマスPerfumeの三本柱で人形的偶像(アイドル)ムーブメントが、ニコニコ動画という場で起こっていることは、今日のこの界隈のことを考えるときには避けられないはず。

オレにとってはPerfumeアイマス初音ミク電脳コイルを結びつける交差点なんだ

THE iDOLM@STER 「エレクトロ・ワールド」 by 雪歩・伊織・やよい 2 H.264/コメ番1195

なぜ電脳コイルが加わるんだろう。ARToolkit765comm@ndみたいに、あちら側とこちら側をつなぐインタフェース技術、ということか。
D

なんか人形みたいに見えていやだ


人形みたいに見えたなら・・・貴方はきっと正しい。歌詞を是非聴いてくれ!人形である意味も感じられると思うから・・・

アイドルマスター Perfume SEVENTH HEAVEN PV風/コメ番1698, 1705

D

三次元への嫌悪/二次元への逃避論争

ここ数日の流れが面白かったので備忘録的にメモ
ちょっと前の承認欲求とかの論よりもより射程が広いのが良い


発端

私達は、ノイズがあらかじめ消去されたクリーンな二次元に囲まれている。グラビアのヌードだってちょっとした蔭や皺は修正されていることがあるだろうし、化粧品のコマーシャルの女優の顔のアップなど、毛穴が不自然なほど消されている。
そういうものに慣れてしまうと、いざ混沌とした現実を目の前にした時にうろたえる。うろたえて気分が悪くなるような体験をすれば、ますます三次元の実体/実態から遠ざかりたくなる。

三次元ヌードへの拒否反応 - ohnosakiko’s blog


オタク方面へ流れていく

二次元とリアルをきちんと使い分けていた人たちは要領のいい人たちである もしくはあまり二次元に興味ない人だろう 多くのオタクはリアルとヴァーチャルの狭間をフワフワと漂っている しかし中には不器用なオタクが2次元ヴァーチャルとリアルの区別ができなくなりリアルな女性に嫌悪しか感じない重症なものも出てきた 彼らはリアル女性に魅力を感じない性欲も感じない 人間とは別のものに理想を求め恋してしまった若者だから

二次元はリアルを超えるか [エイリアンに恋する若者たち] - わがままジジイの独り言


身体性についての言及

男子でも女子でも、三次元への拒否反応する人は自分の肉の体に対してどう折り合いつけてるのか気になるなー。

http://d.hatena.ne.jp/pbh/20080712/1215841333

また、こうした美醜感覚は、自分という避けようのない身体を肯定できなくなる点でより深刻だ。まだ授業のヌードモデルを拒絶するくらいはいい。けれども、自身の身体という醜悪なるものに気付いたとき、これから逃れる術はない。最も身近にある醜悪なるもの。それは自分自身である。オナニーひとつするのも一苦労だろう。これほど醜悪なる自分の肉体を意識させられる瞬間はない。そんな自分を愛するには大いなる欺瞞が必要になるだろう。強力な自己否定を無意識下に押し込めた自己愛というのは辛い。健全な自己愛を得られないと他者への愛も育ちにくくなる。

三次元ヌードの否定は自己否定への道|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記


二次元と三次元の逆転

一時期の私は、「二次元キャラクターを現実の異性の代用品にしているオタクが沢山いる」と思っていた。だが最近は、その正反対の事態も起こっていると考え始めている。即ち、物心ついた頃から二次元キャラクターを理想少女としていた人達にとっては、まず二次元美少女ありき、であって、三次元の異性は、二次元の異性の代用品にすらならない、という事例が起こりえるということだ。

「現実異性の代用品」を超えはじめた、二次元美少女達 - シロクマの屑籠


他者からの逃走

現実の異性や他者との対峙には、自分の願望や想像力に合致しない違和感・齟齬・摩擦が必然的につきまとう。そこが辛いところであるとともに、面白く奥深いところでもあるわけだが、理想のキャラクターを消費するだけであれば、自分好みの想像や願望に合致しない部分をみつけて傷つくことは無いし、自分の願望とキャラクターとの齟齬に苦しむリスクも無い。現実の異性や他者に接近していけば不可避な、傷付きや失望に遭遇せずに済ませてしまうことが出来る。
(中略)


経済的な臍の緒さえ保たれる限りにおいては、理想のキャラクターにくるまれたまま、案外快適なスタンドアロン天寿を全う出来るのかもしれない。コミュニケーションを通しての承認欲求や所属欲求は、ニコニコ動画2chにお任せしつつ、美少女や美少年のキャラクターを消費するという生き方には、他者との遭遇・直面は含まれていないし、範疇的に考えるなら、やっぱり“アウト”っぽいけれど、果たしてどうなのか。“他者”からの逃走に特化した人達の行く末を、しっかり見届けたいと思う。

“他者”からの逃走、としてのキャラクター消費 - シロクマの屑籠

リアルな他者・自分自身の身体を否定するという筋で、二次元オタク、やおい摂食障害を包括的に考える手がかりに。

はてな匿名ダイアリー(増田)より

目の前の他人に興味をいだく、ってどうしたらいいんだろう。
他の人の気持ちに共感する、ってどうしたらいいんだろう。
素直になる、ってどうしたらいいんだろう。
僕はもう、ばかになりたい。ばかになりきれたら、どんなにか生きやすいだろう。


(中略)


僕は、いま目の前で僕に語りかけている人の気持ちがわかりません。
人間はみんな、語られている言語的なメッセージのほかにも
表情やジェスチャーのような非言語的なメッセージを受け取っているそうな。
ふつうの一般の人たちは、ごく自然に、何も努力しなくても
そういうシグナルを読みとって、すばやく空気を読んだ切り返しができるんだって。
僕は、他人の気持ちのほとんどがわからない。読めない。
僕は簡単なコミュニケーション、簡単な会話さえできないクズなのだ。


(中略)


僕は、変わりたい。
みんなと同じものをおもしろいと思えるようになりたい。
みんなと同じものをキライだと思えるようになりたい。
マジョリティになりたいのだ。

http://anond.hatelabo.jp/20080530040045

「共感能力は人間の決定的な条件」というのは、映画ブレードランナーの原作、フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Philip K. Dick, Do Androids Dream of Electric Sheep?, (1968) )の重要なモチーフだった。


(中略)


「共感能力は人間の重要な条件だ」という前提のもと、共感能力を失った人間たちが生きる絶望的な未来(核戦争後の荒れ果てた世界)をディックは詩情を込めて描いて見せた。すなわち、どちらかといえば感情を失ったアンドロイドの方が「生存適者」であるという世界の中で、人間は人間であり得るのかという問い。だがそれを笑えるほど立派な未来に我々が生きているのかどうか。

共感能力は人間の条件

人に助けを求めることがきらい。全部自分でやる。
でも、他人の助けには応じる。だって波風立てたくないから。
飲み会があれば参加するし、遊びに誘われればついていく。
人にはよく「やさしい」と言われる。


でも違う。その「やさしい」は全部自分のため。
くだらない人間関係が嫌いだから。自分の地位を守るため。

他人に興味を持つにはどうしたらいい?

どれもブクマもトラックバックもよく集めてる。多すぎて未消化。また読むメモ。