写真とフレーム

ラストフレンズでも(特に第一話とかで)自然に用いられていた表現だけれども、写真というものは「(幸せだった)過去」を強く志向するものなのだなぁ、と改めて感じた。
卒論で写真を扱う際に教授からも指摘されていたこととはいえ、自分と直接は無関係の写真を一千枚弱も見るとしみじみと感じる。
写真のフレームと箱のフレームの重なりとズレを見ようとしていた、と言ってもこじつけのカッコつけだろう。
一回切り取ることで終わらせてしまわないために、重なりつつも少しずつ様相を変えながら続けられていくことが大事、というところを去年修論で、なんとなく目指して企画倒れになったのであったなぁ(そして取り下げた)。
分析し、言語化しないと反復されてしまう、という古典的テーゼに今年は学ばねばならない。
「時間と空間は感性的直観の純粋形式である」と論じた哲学者の話を今日偶々読んだ。こういうアプリオリな前提としてのフレームを扱いたがるところが僕にはあるようだ。
同じく写真を卒論で扱った某M1さんにお願いして彼の卒論を読ませてもらおう。お酒を飲みながら少し話をして、「恥かしいからあまり読まないでくれ」と言いながら僕の卒論をpdfファイルで渡したものだったが、何が響いたものか見出せるだろうか。