共時性

僕の奥さんは、前から僕のDVDコレクションを目の敵にしていました。


(中略)


数か月間にわたる彼女の圧力は失敗に終わったのですが、ついに、私たちはDVDのケースを捨て、効率的な収納箱へ、メディアをキレイにファイリングすることとなりました。


(中略)


多分、棚に並べるのが好きだったのかも? そして、特定の映画を観るために持っているんじゃなくて、特定の映画を所有することに意味があったのかもしれません。


(中略)


「iTuneのCover FlowやDelicious Libraryを使えばいいんだから」と心の中で踏ん切りがついた瞬間でした。とはいっても、絨毯の上にポンポン放り出されていくDVDのケース達をみると、胃がキリキリ…超複雑な気持ちでした。


その時、私が長年大切にしてきたDVDボックスを並べてきた棚は、かつて繁栄した文明の記念碑のようにたたずみ、魂の抜けたからっぽのケースたちは、ひっそりとゴミ箱へ送られていくのを待っていました。僕は「ありがとう」の気持ちを込めながら、そんなケースたちを見つめていました。

最近研究室でしている雑用とシンクロしててワラタ、もとい、泣いた。
いろんな事情のために何かが失われるとき、何かを切り捨てざるを得ないとき、そこにはいかんともしがたい悲哀がある。


ここしばらくはてな村トリアージ論争が吹き荒れていたけれども、個人的に一番しっくり来たのはmojimojiさんのこれ。

 トリアージって、別に問題の解決でもなんでもなくて、てゆーか、そもそも問題の解決ができないからトリアージが出てくるわけで。だから、トリアージが必要な場面で、トリアージを実行するだけの人たちがPTSDになったりする。人は、問題の解決が可能なのに助けられなかったことが辛いのではなく(そういう辛さもあるときにはあるだろうけど)、問題の解決が可能であろうと不可能であろうとただ助けられないというときに、そのことを直接に、辛く思う。だから、問題の解決と言うなら、トリアージが必要とされる状況をなくすこと、でしかない。

トリアージについて二つ - モジモジ君のブログ。みたいな。