テレビゲームといやし

テレビゲームと癒し (今ここに生きる子ども)
新しい職場での空き時間に、今さらながらに読了。10年以上も前の本だけど今でも十分に通じる話。
ゲーム世界という「虚構」への没頭はなんらかの病の「症状」ではなく「治療」とも見なせるのではないかという問題提起がタイトルになっているのだろうけれど、それよりも個人的に面白かったのはゲームを通した他者との関わりという所。
冒頭で著者は自分にとって80年代を象徴するブランドとしてゲームメーカーの名前を挙げ、ゲーセンで日々更新されるハイスコアの名前を通した顔の見えない交流の体験を叙述している。
スライムのボールペンが精神科医としての著者がなかなか心を開いてくれない子どもと関わる窓になった、というエピソードはそれこそ「子どもだまし」のような感を普通のゲーマーに与えるだろうけれども、まだその先がある。
ある別の事例で、治療関係の終結後、折にふれて最近やったゲームの名前を伝えあうだけの関係が継続した、というものを紹介し、著者はこれを「なにかかけがえのない関係」としている。
直接のゲーム体験の時間と場所を同じくしなくとも、ゲームの名前を挙げるだけで、十分に通じることもできるのじゃないか?という問題提起。


ウィザードリィで街から迷宮への往復を数百、数千回と繰り返した体験を、僕は見知らぬ無数の人達と共有していると信じることができる。
「ゲームはアートだ」と論じた人の話も文中で紹介されていたが、これは「複製技術時代の芸術作品」(ベンヤミン)なのだ。ロムのコピーは無限に可能で、トレボーの試練場一つとっても無限のパラレルユニバースを形成している。


だからゲームの進化について考えるとき、その中のシステムだけでなく、広い意味での、時にはゲームの外のものをも含むゲーム体験まで視野に入れる必要がでてくる。
ウィザードリィの色々な進化形の中で出色のものとしてBUSIN世界樹の迷宮が挙げるのは暴論かもしれないけれども、前者は隣り合わせの灰と青春をはじめとした小説的なウィザードリィ体験を取り込んだものと考えられるだろうし、後者は(僕はまだプレイしていないけど)方眼紙へのマッピング体験(これはなぜかしたことがある)を復活させ、取り込んだものと聞く。


続く。